長野県阿智村「満蒙開拓平和資料館」に行ってきました

8月下旬。長野県阿智村にある「満蒙開拓平和資料館」に行ってきました。

ことの始まりまりは、祖母が他界して遺品整理をしていたことでした。祖母の家で和室の押し入れの奥の方に古びた埃まみれの段ボール箱を見つけました。その箱の中を覗いてみると、大量のアルバム。

その中に祖父が遺したアルバムが数冊出てきたのです。祖父は私が4歳か5歳の時に、肺がんで他界しました。63歳だったそうです。それから、40年経過して、まるで何かのメッセージかのように祖父のアルバムを手にすることになりました。いとこや叔母はたくさんいる。しかも私は当時は東京に住んでいて、名古屋の祖母の家から考えれば、1番遠くに住んでいたのです。それなのに、そのアルバムを手にしたのは、私でした。(祖母が他界した時も、生前の祖母に最後に会ったのは私でした)

これは何かの意味があると思っています。なぜなら、そのアルバムの写真は、祖父が満州に派遣されていた頃の歴史を語る写真だったからです。

それまで私は、祖父が満州へ派遣されていたとは、全く知りませんでした。1934年から1936年に祖父は旧満州にいました。満州事変後太平洋戦争前。祖父は帰国後、体を壊し、戦争へ派遣されることはなくそのまま終戦を迎えました。祖父のアルバムを見つけた時、それまであまり興味を持たなかった満州に、強い興味を抱くようになったのです。

そのことをある知人に話すと、「満蒙開拓平和資料館」というのがある、と教えてもらいました。悲しい歴史の1ページですが、長野県の阿智村近辺の学生しかこの歴史を学んできていないという、もっと悲しい現実があります。

目次

満蒙開拓とは何か?

満蒙開拓とは、満州事変後、日本の国策によって行われた満州(中国東北地方)への農業移民政策のことです。1932年から14年もの間、日本から27万人もの農業移民が満州に移り住みました。
その移民した人たちのことを、満蒙開拓移民と言いました。

満蒙開拓移民は、1931年の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までに日本政府の国策によって推進された、満洲、内蒙古、華北に移民した日本人のことです。
当時、長野県阿智村は、ひどい貧困状態で、日本軍や政府の「満州にいけば、大地主になれる」という誇大広告のもと、多くの長野県の人達が満州に移民しました。しかし、1945年8月9日、旧ソ連軍が満州に侵攻し、命からがら逃げたものの、多くの人は疫病や飢えで他界します。日本が敗戦し、GHQ の統治下になり、戦後1年もたってから、ようやく帰国する事ができましたが、それまでに、戦争の攻撃、疫病、集団自決によって、約8万人の日本人移民が満州で死亡し、日本に帰国することができませんでした。

彼らは、戦争の被害者であり、日本に帰国した後も、苦労の連続であったに違いありません。

もし、祖父のアルバムを見つけなかったら、私は満州のことを知ることはなかったでしょう。満州の歴史を知るということは、祖父が「学んでほしい」と伝えた私へのメッセージだと思っています。きっとここに何か意味があるのだと思うのです。


記事を書く時には、SEO対策のためキーワード検索をするようにしていますが、今回【満州】というキーワードから、スモールキーワードを探したところ、残念ながら【満蒙開拓】という言葉は出てきませんでした。つまり、ほとんどの日本人が、この歴史の悲劇を知らないということです。それはとても悲しいことです。

私たちの国の平和は、多くの犠牲の上に成り立っているということを忘れてはいけません。

祖父があのまま満州に残っていたら、きっと私はこの世に誕生していません。

命が数珠繋ぎに繋がっていること。それは感謝すべきこと。歴史を振り返れば、多くの命の犠牲があるからです。

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この記事を書いた人

株式会社KIZUNA
日本におけるキャスティングとロケコーディネート、マカオ・香港のロケコーディネート・キャスティング・スタッフィング、日本人向けの旅行・視察アテンド業務・プライベートガイドを行っています

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